夜風の中にほんのりと、雨の匂いを感じる梅雨。2001年、6月末。 四季グリーンホテルから、慎吾はまっすぐ帰ってきていた。 もうじき午後8時になる。今日はホテルでなにも問題のない一日だった。 慎吾はマンションの玄関に入ったとたん、リビングと廊下の境の、半開きのガラス戸(猫が通れるようにとの配慮で、普段から完全にドアは閉めない)を凝視した。 貴奨は帰宅していても、靴を下駄箱の中にしまう癖がある。 全身を耳にして、慎吾は奥の様子をうかがった。 「…いるな。グレースが出てこない」 グレースは慎吾の飼っているメス猫で、もう一匹、ミルクという名前のオス猫もいる。 「ミルクはともかく、グレースが来ないってことは」 つまり、彼女は今、貴奨の膝にのっているということなのだ。 この家の主人が誰なのかをよくわかっている猫達は、貴奨のそばが好きだ。ミルクの定位置は貴奨のダブルベッドだし、貴奨が帰宅すれば、彼の膝がグレースの定位置になる。 「ただいま〜っ。もうメシ食った?」 慎吾は靴を脱ぐと、そろえて玄関のはじに寄せてから、まっすぐリビングに声をかけた。 だが。 「…ごめん。寝てた?」 細く開いていた貴奨の寝室の扉をノックしないで開けた慎吾は、一人がけのソファに座っていた貴奨と、目があったとたん謝っていた。 「いや。目を休めていただけだ」 「え…と、メシ食べた? 銀鱈(ぎんだら)の西京漬け、お中元でもらってるけど良かったら…」 「食欲あまりなくてな。俺のことは気にしないで、やってくれ」 ほんの少し、声に柔らかい響きをのせて貴奨はそう言った。落ちこんでいるわけではなさそうだ。 慎吾はうなずくと部屋から出て、食事の支度をしにキッチンに入った。 ここのところ貴奨は、帰宅すると言葉も少なく、なんだか元気がない。 コンシェルジェデスクに立っている間は、いつ、誰からなにを質問されてもいいように、万全の体制で門戸を開いて待っているので、かえってプライベートとのギャップが激しく、慎吾は心配で目が離せなかった。 自分の知らない恋人と、なにかトラブルでも抱えているのか? 今日こそ慎吾は聞いてみたかったが、やはり言い出しにくい。 現在、高槻はバンコクに出張だそうで、昨夜は慎吾のメールアドレスに、現在のバンコクの街のことや気候や道ゆく人の服装などが、短くまとめて入っていた。 こういった最新の情報は、狭いホテルの中で働いている慎吾や貴奨には、なによりもありがたいものだ。 高槻は数年前、貴奨とは恋人関係を解消していたが、慎吾にはまだそれが信じられない。信じられないというより、諦めきれないでいる。 今でもこんなに細やかに、貴奨との信頼関係を続けてくれているのに、と。 高槻は最近、東京に仕事でやってくることが多い。 そんなとき、彼はこのマンションに泊まるようになっている。貴奨はそのために来客用の和布団を一組買った。布団を敷くのは、ほとんど貴奨の部屋だ。 高槻は慎吾とも寝たがったが、あいにくと貴奨の部屋ほど整理整頓がなっていないので、慎吾の部屋には布団を敷くスペースはないのだった。 恩ある高槻のためなら、部屋の大掃除ぐらい簡単だが、あえて慎吾はいつまでも広いスペースを作らないでいる。そうしておけば、高槻は仕方なく、貴奨の部屋に泊まってくれるから。 なにかのきっかけで、二人の仲が戻るかもしれないなら、ささいなことでも、やらずにはいられない気分なのだ。 「…おまえには、ちゃんと恋人がいたほうがいいと思うんだけどな…」 サラダにするレタスとキュウリを切りながら、小声で慎吾はつぶやいた。 たぶん貴奨は認めないが、あいつは自分よりも寂しがりやだと慎吾は確信している。 周囲のどんな人間よりも大人で、立派で、隙がなくて…でも、貴奨はときどき、ぬくもりに飢えたような瞳で、どこかを見つめている気がする。 (高槻さんの幸せを見届けるまで、自分が幸せになるつもりはないのかもしれないな…) むくわれない恋の痛み…そういうものも、貴奨にはなんとなく似合う気はするけれど。 「高槻さんのそばには今、薫さん、いるしさ。…きっと、くっつかないだろーけどさ」 兄達ぐらいの年令になれば、肉体の結びつきに関わらず、精神的な繋がりが重視されていくというのも、うすうす慎吾は気づいていた。だてに男同士の恋愛ばかりの環境で、揉まれているわけじゃないのだ。 そのとき、グレースを胸に抱いたまま貴奨がリビングに入ってきた。 「サラダと鱈でワイン開けたら、つきあってくれる?」 慎吾の呼びかけに、ソファに座ろうとしていた身体が振り向いて、そのままキッチンとの間にあるカウンターの椅子に腰をおろす。 グレースは気持ち良さそうに目をつむっていて、それを見た慎吾の目が、やわらかく細められた。 「おまえのほうからワインの誘いか? 珍しいな」 「正道がさ、試飲してみろって、送ってくれたんだ。イタリアワインの赤と白、半ダースずつ」 「そう言えば、正道はイタリアの商談のひとつを、薫さんから任せてもらったそうだな」 正道は萩原家の長男で、現在25歳。父親の若い頃の顔だちに似ていると周囲みんなに言われている、萩原商会のもっとも若いプリンス。彼は「仕事の精神と不屈の商談理念」を、高槻から仕込まれている最中で、高槻が今一番、目をかけて育てている存在だ。 「うん。先月半ばから、トスカーナのワインとオリーブだけね。ところで白と赤、どっちがいい?」 「おまえが飲みたいやつにつきあうさ。まぁ、銀鱈なら、白じゃないか?」 そうだよね、魚だもんねと言いながら、慎吾は冷蔵庫に入れておいたワインをカウンターに置いた。 「開けてよ」 「なんだ? おまえ、まさか開けられないのか?」 「だって俺、自分じゃ飲まないし。シャンパンなら風間さんに仕込まれたんだけどさ」 「ちょっとこっちに来い。教えてやるから」 カウンターの横のある、ひきだしの中から、貴奨はコルクスクリューをとりだした。 慎吾はサラダにするレタスをちぎっている手を、さっさと振って謝る。 「えー、やってよ。失敗したら悲しいじゃん」 「ワインぐらい開けられないと、将来困ることになるかもしれないだろう」 「将来? コンシェルジェって、ワインも開けられなきゃ駄目なのか?」 慎吾が目を丸くして尋いたとたん、クッと喉の奥で貴奨は笑ってしまった。 「笑うことないだろ!」 「違う、馬鹿。俺が言ったのは仕事じゃなくて、家庭を持ったときのことだ」 家庭? 家庭というと…まさか、結婚とか? 突然そんなことを言い出した兄の顔を、慎吾は唖然と見つめてしまう。…結婚っっ!? 「けけけけ、け、結婚って-----!?」 「可能性がないわけじゃないだろう? なにしろおまえは、ゲイじゃないそうだから」 「…う」 「ほら、こい。大人のたしなみだ。覚えておいて損はないぞ」 「たしなみ」とまで言われると、キッチンから出ていかないわけにはいかなかった。 先週会った健は「男のたしなみ」は、コン●ームの新商品が出たら必ず試すこと、と言っていたが、たしなみでもずいぶん健と貴奨は違うものである。 貴奨の手の中には、ジャックナイフのように開くタイプのコルクスクリューが握られていた。 「これが一般的にソムリエの使う物だ。『ブートレバー』という」 貴奨はソファにグレースを置いてから、慎吾の背中に立った。 「ボトルを開けるには、てこ、が必要だ。でも、その前にボトルをナフキンで拭く。…ほら、きれいにしてやるんだ」 「…なんか、やらしー言い方」 「どこが。次に、ナイフの部分を使って、このキャップ部分を切る。指を切るなよ、慎吾」 「切んないよっ。どのへん、切ンだよ。指でも、むけそうじゃん。このキャップ、鉛(なまり)だろ?」 「上部で切ると見た目に美しいが、好きずきだ。しかし最近、鉛(なまり)が食べ物や飲み物に、ほんの少しでも混ざると人体に良くないことがわかってきたから、ソムリエ達はワインを注ぐとき、ここにぶつからないようにと、キャップの中央で切るようになってきているな」 「あ、コルクにカビがっ」 慎吾はキャップをはずしたとたん、焦った声で叫んだ。貴奨が慎吾の肩から顔をのぞかせる。 少しでも動けば、慎吾の唇と貴奨の顔がぶつかってしまう距離だ。 うすいフレグランスの香りを一度意識しただけで、貴奨の香りに包まれてしまった気分になる。 「ああ、これぐらいのカビなら拭けば大丈夫。次は、コルクにまっすぐスクリューの先を…こら、待て。まっすぐにだ。少しでも、ななめにはするな。命とりになる」 「ん、もうっ、やってくれよ〜〜〜っ」 肩と背中を包むぬくもりに落ちつけず、慎吾は右手に持っていたブートレバーを貴奨に押しつけようとした。だが、貴奨は受け取るそぶりで、慎吾の手に持たせたまま自分の手を重ね、もう一度ワインに向き直らせたのだった。 「ほら、左手でボトルを持ちながら胸でしっかりワインの底を支えて。まっすぐに切っ先をコルクに…そう、できるじゃないか。そのまま、ゆっくり手首を使って、一、二度回すんだ。この、カギ状になっている先端がボトルの口にひっかかるところまでスクリューを埋めて、ここを使って『てこの応用』をする」 貴奨の手に包まれたまま、慎吾は慎重にコルクを引き出し始めた。 だが途中、コルクの表面に亀裂が入った瞬間、手の動きを止めてしまう。 「失敗したっ」 「大丈夫だ。コルクの向こう側まで貫通しただけだろう。力は入れなくていんだ。ほら、ワインの底を太ももでしっかりはさめ。こういうときの緊急事態にも対処できたほうがいい」 冷たいボトルを太ももに、有無をもいわさずはさみこまされ、あまつさえ、貴奨の腿にまで挟まれる格好になってしまった慎吾だった。 つまり今、慎吾が内側、貴奨が外側という、二人羽織り状態なのである。 (こ、腰ぶつかってる…っ。貴奨のファスナーの部分が、俺のケツにこすれて…っ) こすれる、どころじゃない。密着というのだ、これは。 「もうやだ〜〜〜。やってくれよ。ねぇっ」 「あと少しだから我慢しろ」 逃げたがった慎吾の身体が、さらにきつく抱えこまれる。こんな…こんなふうに接近して、貴奨はなんともないのだろうかと慎吾は唇を噛んだ。 「ほら、ゆっくり出てきた。そのままそっと引いて…。いい子だな」 「いい子って、おまえ」 「コルクのことだ。窮屈な道を通り抜けてきたんだ、褒めてやれ」 そのとき、キュポンッ! と心地いい音でコルクが完全に抜けた。 慎吾の全身から安堵のため息があふれたのと、身体に感じていた貴奨からの締めつけが消えたのは同時だった。 慎吾から離れた貴奨は、ワイングラスの並んでいるキャビネットから、ちょうどいいグラスをひとつだけとってきた。 慎吾の手からボトルを奪い、グラスにほんの少しだけ注ぐ。テイスティングだ。 「…ん。いい感じだ。ほら」 そのまま、同じグラスを唇に押しつけられて、慎吾は首を後ろに反らした。 喉に冷たい白ワインが流れこんでくる。喉ごしのキリッとした印象とは対照的な、濃い芳香が口の中で広がった。 「ちょっと濃くないか? これ」 「いや、こういうものだろう。もう少し飲んでみろ」 立ったままの試飲は、どう見ても行儀が悪いことこの上なかったが、慎吾はまた一口、貴奨の手がグラスを唇に押しつけてくるままに、舌の上でワインをころがしてみた。 今度は喉が慣れたせいか、辛口の白ワイン独特のなめらかさが、まるでくすぐるように喉に流れこんでくる。 「長い間ワインの世界は、ほとんど男だけに限られた世界だった」 貴奨の、つぶやきが、うっとり味わっていた世界から、慎吾を現実へと引き戻す。 「女性をかたくなに拒んでいた味は、どうだ?」 その瞬間、慎吾は激しくむせこんだ。 ガチッと歯がグラスに当たったのを見て、あわてて貴奨がグラスを口から離す。 「危ないな! 口を切ったらどうする!」 「誰の…っ…ゴホッゴホッ…せいっ…バカっ」 どうしてこう、なにもかもいやらしく聞こえてくるんだか謎な兄を、慎吾が睨みつける。 今後、白ワインは男の味だと頭の中で変換させられそうだ、こいつのせいで。 赤くなってしまった顔を洗ってこようと、洗面所に向かいかけた慎吾の肩がつかまれて止められる。 「水道水でうがいするな。白ワインの芳香がだいなしになる」 そのまま貴奨は、冷蔵庫から冷たい水をとりだして慎吾にすすめた。 ペットボトルの表面に「俺の」と書かれたボルウィックは、慎吾が直接、ボトルの口から飲めるようにと、自分専用で買ってきてあるものだ。 慎吾から離れ、貴奨はレンジで焼き上がっていた鱈を皿に盛りつけた。 サラダも手早くガラスボールに盛りつけてしまったので、慎吾には小皿と箸の準備しか残っていない。 「このワインには、温かいマッシュポテトが合う感じがしないか?」 「今から作るのかよ」 湯を沸かして、じゃがいもを茹で、熱いうちに潰してから生クリームと牛乳をほんの少し混ぜて作るマッシュポテトが貴奨は好きだ。 これは、高槻が教えてくれたレシピで、今や貴奨の得意料理のひとつでもある。 「すぐにできるさ。ワインをもう少し冷やそう。パンは焼かないのか?」 「食欲ないって言ってたくせに」 食事の支度を始めると、最後に、あと一品用意したがる癖が貴奨にはある。 それでも食べてくれないよりはいいか、と慎吾は大きい鍋に湯を沸かしはじめた。 レストランでする食事とは違い、ワインが食卓に並んでいても、男二人だけの食事はかなりくだけた調子だ。 丸テーブルにセッティングしたものの、マッシュポテトと鱈の匂いを嗅ぎつけた猫達が、貴奨と慎吾の足に、ゴロゴロ喉を鳴らして身をすり寄せてくるのを払いながら食事は進んでいる。 高槻が来ているときは、必ず貴奨か慎吾の部屋に隔離されてしまう猫達も、今日のようなときは、5回に1度は夕食のおすそ分けをもらえるのがわかっているので、しつこく何度でも、慎吾の膝に飛びのろうとするのだった。 「美味いワインだ。正道にお礼のメールを打っておいてくれ」 「もう一本開けるなら、今度はおまえがやれよ。俺、やだからな」 「失敗しそうになったら手伝ってやるから、おまえがやれ」 「い・や・だ! おまえのほうが俺よりたくさん飲んでるじゃんか」 言い合いの末、くすくす笑いながら席を立った貴奨の背に、安堵の視線を慎吾が送る。 …恋人じゃなくても、いいのかもしれない。 こんなふうに貴奨と明るい時間を過ごせるなら、自分だって…。 そう思いかけたが、でもやはり、この兄には、真摯に愛を囁く相手が必要だと考え直す。 愛を送りこんでいた相手から中途ハンパに距離を置かれて、たぶん貴奨は、溢れるような想いをもてあましているのだろうから。 立派な男性の肉体を持つ高槻を、この兄が両腕の中であやし、尽きることのない愛を注ぐ情景を思い浮かべるたび、慎吾は恥ずかしくて体温が確実に上がる気分になる。そんな想像の中の貴奨はいつも、とろけるように幸せな表情をしている。 墨ではいたような、端正で静寂さをうかがわせている目元が、このときだけは、ぬくもりの強く感じられる、安心した、やさしげなものになる。 見ているこちらまで、幸せにしてくれるような瞳になるのだ。 「…恋人…作れよ。お願いだからさ…」 キッチンでワインボトルを拭いている貴奨に、そのつぶやきは届いていない。 2本目のワインのコルクが、小気味いい音をさせて抜かれた。 <END> ※すみません。カップリング投票の、お祝いだったのに、こんなんで。 あと、白ワインのくだりも、とっとと記憶の彼方に飛ばしてください〜。あうっ。(川原) |